台湾の盧建順(57)が、日本シニアツアー公式戦の日本プロシニア選手権を初制覇。3年シードを獲得したことで、アジアの渡り鳥は、日本を主戦場にする決心を固めた。
大会初日に68、2日目に66のベストスコアを出して単独首位に立った盧は、3日目も69で回り、大会3日間ただ一人60台のスコアをマークした。通算13アンダー単独首位。2位の久保勝美には3打差を着けていた。
「決勝ラウンドで3(アンダー)と2(アンダー)でOKね」と盧は2日目にそんなコメントを残していた。
通算15アンダーまでスコアを伸ばせば勝てる--。師匠は謝敏男。台湾での戦歴は40勝を超え、アジアンツアーでは賞金王に2度輝き、シニアツアーを含め海外ツアーでは17勝を数える百戦錬磨の猛者は、試合展開をその時点で読み切っていたのだ。
迎えた最終日1番パー5でバーディー発進。2番ホールから11番ホールまでパーをセーブ。12番パー5ホールでの3パット・ボギーで盧のスコアが久しぶりに動いた。15番パー4ホールでも3パットを打ち、通算12アンダーにスコアを落とし、この時点で久保と首位の座を分け合ってしまう。
「15番ホールまでパット感触が駄目で、タッチがまったく合いませんでした。(首位に並ばれたけれど)まだ大丈夫、次にバーディーを獲るぞと前向きな気持ちでいました」。 その強い気持ちが16、17番ホールでの連続バーディーを導き、18番ティーに立った時点で2位に2打差を着けていた。パーセーブで逃げ切れる。盧は3オン2パットのパーでフィニッシュし、通算14アンダーで頂点に立ったのだった。
今年から台湾シニアPGA会長の役職に就いた一方で、今季のシニアツアー予選会を外国人選考会から突破し、最終予選会6位の座を射止めた。「ゴルフも日本も大好き。本当に好き。出場チャンスを頂けて幸せです。倉本会長と同じく、会長職兼選手ですが日本と台湾の大きな架け橋になれるように頑張ります」と最終予選会直後には、日本シニアツアー参戦を素直に喜んでいた。
1985年ダンロップオープンで日本ツアーに初出場し、アジアンツアー選手として毎年のように同オープンに出場していた。「成績? 優勝したなら覚えているけど、それ以外は忘れたよ」と朗らかに笑う。2001年から08年は背中痛でプロ活動を一時休止し、コースマネジャーとしてカートに乗り、コースを巡回。「歩くことが出来なかったし、痛み止めの薬も効かなくて、お酒で痛みを抑えたよ。1年でウイスキーボトル1000本は飲んだかな。昔はお酒が強かったね」
09年に復帰し、2010年から15年まで米PGAチャンピオンズへ参戦。2位3回の戦績を残し、15年の日本シニアオープンで日本シニア界にデビュー(結果9位)。16年の同オープンで3位に入っている。
「日本で頑張ります。60歳になるまであと3勝したいです」と背中痛が完治した盧。
美酒はいらない。なぜなら、飲酒は、もうしていないからだ。これから3年、大好きなゴルフを大好きな日本でプレーできる。その喜びだけで十分に違いない。
(PGAオフィシャルライター 伝昌夫)