「日本プロシニア住商サミット杯」の最終ラウンド。首位スタートの白潟英純(53)が、一時14アンダーまでスコアを伸ばしたが、15番ホールをトリプルボギーとし苦しい展開に。しかし後続も追いつけず、通算12アンダーで3打差をつけて、シニアツアー初優勝を飾った。2位には通算9アンダーでタワン・ウィラチャン(51)、プラヤド・マークセン(53)、倉本昌弘(64)、塚田好宣(50)が続いた。
これが、シニア初優勝、しかも伝統ある日本タイトルのプレッシャーだったのだろう。白潟英純(53)はこう切り出した。「慌てました。15番から、ほんと、落ち着きませんでした」。
優勝への道のりは平たんではなかった。2位塚田に2打差でスタート。1番パー5で40ヤードほどに2オンしたが、3メートルショートし、3パットでパーに終わった。2番パー3ではピン右上につけてしまい、連続3パットでボギー。この時点で塚田に並ばれる。それでも、8番8メートル、9番1メートルを入れ、12番では2メートルにつけてバーディー。通算14アンダーまで伸ばした。追う側の同組の塚田、ウィラチャンが14番でともにダブルボギー。ここで一気に5打差に広がった。
「12番でバーディを取ってから、1ホール、1ホールという気持ちでいました。相手のスコアは気にしていなかったんですが」という。直後の15番だった。第1打を左のバンカーに入れ「ピッチングウェッジでした。グリーンの手前までとか、あわよくばと、迷いがあった」とダフって、ピンまで60ヤードほど残した。そこでもダフって30ヤードほどしか飛ばず、第4打でピン上7メートルほどに。1メートル強ショートしてまさかの3パットのトリプルボギー。貯金は一気になくなった。「頭が真っ白になった。なんでこんなことやるんだろうって」。17番で取り、最終18番パー5ではレイアップして第3打をピン上にオンさせた時点で、やっと勝利がみえた。
バーディーパットは10センチほどに寄せた。同組の選手たちに言われて、笑いながらマークした。1988年シニアツアー制度施行以降では10人目の、日本プロシニアでのシニア初優勝者となった。
「ゴルフをずっとやってきて、初めてメジャーなタイトルになった。日本タイトルを自分なんかが、という気持ちは多少あります」と笑った。
台風19号の影響を考慮して第3日は中止となり、88年以降初めて54ホールに短縮された。「いつもなら一晩考えればいいんでしょうけど、1日と一晩は長かった」という。前日はホテルを出ずにいた。「レギュラーツアー(ブリヂストンオープン)は昨日のうちに最終日も中止になっていて、テレビではひどいことになっている。こっちはどうなのかなーと思いながら過ごしていました。中止になればいいと思うと気持ちが折れるので、思わないようにしたんですけど」という。この日朝の快晴を見て、よしやるぞと思った?「うーん…あーあというのと、よしっていうのと、正直半々ありました」と、それこそ、正直に胸の内を明かした。
1980年、青木功がジャック・ニクラウスと激闘を演じた全米オープンをテレビで見て、初めてゴルフを知ったという。中学3年の終わりごろにゴルフを始め、地元福岡で行われるKBCオーガスタを見に行っている。「倉本さん、羽川さん、湯原さんとかを見ていました」というから、今その選手たちと同じ土俵に上がっている。九州産業大ではゴルフ部。同部では初めての日本タイトル保持者になった。
シニアは4年目になる。「レギュラー時代よりも、シニアになってうまくゴルフができるようになった。打ち方が分かったところもあります。ドライバーの球のとらえ方とか」。では、ゴルフはまだ進化している?「ゴルフは進化しているけど、体が退化している」と笑った。水素吸入や広島カープ式のトレーニングなども取り入れ、体のケアには心掛けている。
今後の目標は?「今までは目の前の1勝だったので、目標といわれてもすぐには…」と考え、「全英シニアオープンに出たいです。今年、奥田さんや羽川さんとマンデーに行って、1打差で落ちたんですけど、それから成績がよくなった。海外でやるとフェアウエーに打つ大切さを感じる。本戦に出たいというのが目標です」。全英シニアオープンへの出場資格は賞金ランク1,2位。2位ウィラチャンには約1200万円余。追いつけない数字ではない。
(オフィシャルライター・赤坂厚)