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第9回 日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者を発表

2022年02月01日

松井功プロゴルフ殿堂理事長,小林浩美JLPGA会長が列席〔写真拡大〕

日本プロゴルフ殿堂は2月1日都内で会見を開き、第9回殿堂入り顕彰者を発表した。レジェンド部門からは、山本増二郎、古賀春之輔、安田春雄の3名、プレーヤー部門では、尾崎直道、塩谷育代の2名が殿堂入りすると伝えた。特別賞には松山英樹、稲見萌寧、笹生優花が選ばれた。

プロゴルフ殿堂入りを発表〔写真拡大〕

 今回選出された5名のメンバーは、ゴルフ界発展に尽力されてきた輝かしい経歴を持つ。レジェンド部門は、男子ツアー制度施行前の1972年以前に活躍し、功績を残した選手が対象。プレーヤー部門では、1973年以降に活躍し、功績を残した選手で、日本プロゴルフ殿堂の表彰ノミネート基準を満たしたプロに贈られる。プロゴルフの礎を築いてきた先人たちは、これまでにたくさんの感銘をファンに与えてきた。 松井理事長は「先輩方の偉業に対し、このように敬意を表せる機会に感謝申し上げます。顕彰されるみなさまは、努力、忍耐を重ねて功績を残されました。日本のゴルフを盛り上げようと、ホスピタリティー精神のあるプレーヤーばかりです」と評した。 また世界で顕著な功績を残したマスターズ覇者・松山英樹、オリンピックゴルフ銀メダリスト・稲見萌寧、全米女子オープン優勝・笹生優花の3選手は、特別賞として表彰される。 今回の顕彰式典は、今年3月11日(金)14時からパシフィコ横浜のジャパンゴルフフェア会場内ステージにおいて開催し、当日は一般の観覧も可能となる。〔レジェンド部門・山本増二郎〕  1911(明治44)年12月25日~2000(平成12)年10月2日

 静岡県出身。15歳のころ、地元の川奈ホテル建設事務所に就職。やがてゴルフをするようになり、当時、東京の駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部でプロを目指して修業した。 川奈でプロとしてのスタートを切り、東京ゴルフ倶楽部(朝霞=埼玉県)を経て我孫子ゴルフ倶楽部(千葉県)の専属となる。ここでは林由郎ら後輩を育て、後の佐藤精一や青木功、海老原清治らにつながる我孫子一門の礎を築いた。  戦後、復員すると解散していた関東プロゴルフ協会の復活に向けて奔走。終戦翌年、散り散りになっていたプロを我孫子ゴルフ倶楽部に集めて再結成を決議し、会長に就いた。1948年には他のトーナメントに先駆けて関東プロを復活させるなど、戦後のプロゴルフ界復興に大いに尽力した。1969年には日本プロゴルフ協会第 3 代理事長(現会長職)に就任。約 5 年間、日本プロゴルフ界のかじ取りを担った。〔レジェンド部門・古賀春之輔〕  1913(大正2)年 3 月 9 日~1988(昭和 63)年1月 12日

 東京都出身。慶応義塾普通部から慶応大学に進むが中退。父親が居を移していた兵庫県の甲南ゴルフ倶楽部でゴルフを学んだ。19歳になった1932年、日本プロなどに出場した記録が残っている。1950年の関西オープン2位が最高成績。 太平洋戦争中は徴兵で戦地へ。戦後は宝塚ゴルフ倶楽部(兵庫県)所属となる。関西ゴルフ界の発展に努め、関東と関西に分かれていたプロゴルフ協会の統一にも尽力。1957年の日本プロゴルフ協会設立にひと役買った。1963年、浅見緑蔵が日本プロゴルフ協会第2代理事長(現会長職)に就任した時に副理事長となり、以降、副理事長として理事長を支え続けた。国際交流でも存在感を発揮していたという。  宝塚ゴルフ倶楽部では後進の育成に力を注ぎ、島田幸作、大迫たつ子と2人の日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者を育てている。〔レジェンド部門・安田春雄〕  1943(昭和18)年1月19日生まれ、79歳

 東京都出身。「和製ビッグ3」の一角を占め、屈指のショットメーカーだった。中学時代に自宅近くの砧ゴルフ場で球拾いのバイトをしていた時に、中村寅吉と出会った。中村に師事してゴルフを始め、1962年プロテストに19歳で合格。 1968年中日クラウンズで鈴村久と9ホールに及ぶプレーオフを制して初優勝。翌年のフィリピン・オープンで日本選手初制覇する。1971年にはシンガポール・オープンを制し、1972 年台湾オープンに勝って海外3勝目を挙げた。ショットメーカーとして定評があり、特にアイアンの名手と言われた。 当時日本のゴルフ界のトップにいた杉本英世、河野高明とともに、世界的スターだったパーマー、ニクラウス、プレーヤーのビッグ3になぞらえて「和製ビッグ3」と呼ばれ、高い人気を誇った。1980年に日本プロマッチプレーを制し日本タイトルを獲得。1984年三菱ギャラントーナメントが最後のツアー優勝になった。シニアツアーでは3 勝を挙げている。〔プレーヤー部門・尾崎直道〕  1956(昭和31)年5月16日生まれ、65歳

 徳島県出身。尾崎3兄弟の末弟で、持ち前の勝負強さで永久シード選手となった。既にゴルフ界でトップにいた兄・将司、プロ野球ヤクルトのドラフト指名を断ってゴルフに進んだ次兄・健夫を追って将司の元に飛び込み、プロを目指した。 千葉日大一高卒業後、1977年にプロテストに合格。1984年静岡オープンで初勝利を挙げてから一気に開花した。以後、勝利を積み重ね、1988年日本シリーズで初の日本タイトル。1990年に日本プロマッチプレー、日本シリーズを制した。1991年日本シリーズでは大会前日に父・実さんが死去し、欠場した兄2人から託されて出場、優勝を果たして初の賞金王になった。 1993年から米ツアーに挑戦し、8年間シード権をキープした。1999年には日本プロ、日本オープンを制し、日本タイトル4冠を達成、2度目の賞金王になった。シニアでも米チャンピオンズツアーに出場後、日本で活躍。2012 年に賞金王になっている。 兄・将司(ジャンボ)、健夫(ジェット)からJにちなむ公募で決まった「ジョー」の愛称も 1990 年代から定着、ファンに親しまれている。〔プレーヤー部門・塩谷育代〕  1962(昭和 37)年5月 28日生まれ、59 歳

 愛知県出身。中学時代は陸上選手で全国放送陸上選手権の走り幅跳びで優勝している。1982年プロテストに合格。1987年にアジアサーキットのマレーシア・レディースオープンで優勝。JLPGA ツアーでの初優勝は 1989年のヤクルトミルミルレディースだった。 1992年に初の賞金女王を獲得。1995年に日本女子オープン、JLPGA 明治乳業カップと公式戦2勝など計5勝を挙げ、2回目の賞金女王を戴冠。1996年には日本女子プロを制し、史上4人目の公式戦3冠を達成した。1998年にシーズン途中で産休に入って第1子を出産し、翌 99 年にはツアーに復帰。2001年にヴァーナルレディースで母となって初めての優勝を飾る。 母としては計3勝を挙げ、ツアー通算20勝の大台に乗った。2011年にツアーから引退。2012 年にはレジェンズツアー(45歳以上の女子プロ)のふくやカップマダムオープンで優勝している。現在はテレビ解説や若手、ジュニアの指導などで活躍中。 ◇ゴルフフェア入場に関する情報は こちら>>☆日本プロゴルフ殿堂 公式ホームページは こちら>>