日本プロゴルフ殿堂は8日、都内で記者会見を開き、「第5回日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者」を発表した。今回からは表彰基準も新たに見直され、選ばれたのはレジェンド部門から陳清水、河野高明、清元登子の3名、プレーヤー部門からは島田幸作、村上隆、涂阿玉の3名で、計6名が決定。顕彰セレモニーは、3月24日に開催されるジャパンゴルフフェア会場(パシフィコ横浜)にて執り行われる。

松井理事長 「感動や感銘を与えてくれた先輩方に感謝を示したい」と松井理事【拡大写真】

日本プロゴルフ殿堂が設立されて今年は5年目を迎えた。名士といわれる歴史に残るプロゴルファーの功績を称えるとともに、日本のゴルフ史をひとつひとつ積み重ね、そして未来へつないでいくのが大きな殿堂の趣旨である。今年はノミネート委員を15名にするなど、表彰基準を見直すことにより、新たな殿堂入りメンバーを決定。ゴルフ界に多大な貢献をされた今回の6名に対し、感謝の気落ちと尊敬の念を起こさせるものとなった。


選出された6名の殿堂入り式典は、3月24日(金)13時30分より、パシフィコ横浜「ジャパンフェア」会場内で執り行われる予定となる。当日は一般の観覧も可能だ。





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陳清水
レジェンド部門・陳清水 氏 (ちん・せいすい)

1910(明治43)年1 月25 日〜1994(平成6)年1 月8 日


【主な戦績】
日本プロ2 勝(1942、53 年)、日本オープン1 勝(1937 年)、
関東プロ3 勝(1934、35、56 年)



【プロフィール】
 台湾出身。台湾のプロゴルファーの草分け。淡水GCでキャディーを経てプロとなる。1927(昭和2)年、野村駿吉(後の日本ゴルフ協会副会長)らに才能を認められて程ヶ谷CC(神奈川県)で修業するため来日。浅見緑蔵の下で7 カ月ほど学んだ。その後再来日して日本に定住。トッププロへと成長する。


1935 年には安田幸吉、宮本留吉らとともに米国遠征メンバーに選ばれ、全米オープンにも出場した。同年末には戸田藤一郎と再渡米し、翌年にかけて各地でトーナメントに参戦。1936 年4 月には戸田とともにマスターズにアジアの選手として初めての出場を果たし、20 位に入っている。


1937 年に日本オープン優勝、日本プロは2 度(1942、53 年)制覇するなどの実績を残したほか、陳清波ら来日した台湾出身の後進の育成にも尽力した。1973 年、日本に帰化。

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レジェンド部門・河野高明(こうの・たかあき)氏

1940(昭和15)年1 月4 日〜2010(平成22)年4 月22 日


【主な戦績】

◇国内16 勝 ※1973 年以降は賞金ランキング加算競技が対象
日本オープン1 勝(1968 年)、日本シリーズ2 勝(1967、68 年)、
関東オープン1 勝(1967 年)など
◇海外4 勝
ブラジルオープン1 勝(1967 年)、マレーシアオープン2 勝(1969、71 年)、
シンガポールオープン1 勝(1972 年)
◇代表歴
ワールドカップ(1968〜72 年)



【プロフィール】

神奈川県出身。中学卒業後、父親が勤務していた程ヶ谷CCに入り、19 歳でプロとなった。実弟の光隆が日本プロを連覇(1965、66 年)して先に大きく羽ばたき、その陰に隠れた存在だったが1967(昭和42)年の関東オープンで初優勝を飾ったのを機に急成長する。同年は日本シリーズも制し、翌1968 年には日本オープンと日本シリーズで優勝。日本を代表する存在となった。


海外での活躍も目覚ましかった。1969 年にはマスターズに初出場。当時のアジア勢最高位となる13 位に食い込んだ。翌1970 年もマスターズで活躍。12 位となって自らの記録を塗り替える。160cmの小さな体で奮闘する姿から、「リトルコーノ」と呼ばれて多くの観客から愛された。ワールドカップの日本代表には1968年から5 年連続で選出され、1969 年に団体2 位、1972 年には団体、個人ともに2位の好成績を収めている。


1970 年には5 勝を挙げて、史上初めての”1000 万円プレーヤー”となる。同時代に活躍した杉本英世、安田春雄とともに「和製ビッグ3」と称され、プロゴルフ人気を高めることにも大きく貢献した。

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清元登子

レジェンド部門・清元登子(きよもと・たかこ)氏

1939(昭和14)年6 月15 日生まれ、77 歳



【主な戦績】
日本女子オープン1 勝(1978 年)、トヨトミレディス1 勝(1973 年)、
大雪山女子オープン1 勝(1975 年)、諏訪湖女子オープン2 勝(1975、77 年)、
北海道女子オープン1 勝(1980 年)、広島女子オープン1 勝(1981 年)


【プロフィール】
 熊本県出身。クラブを握ったのは24 歳の時。当時は実家が営む洋品店の手伝いをしていたが、やがてゴルフ一本に絞り1 日12 時間練習するほど打ち込んだ。ゴルフを始めて約2 年後の1965(昭和40)年、初出場の日本女子アマで3 位に入る。


以降、日本を代表するアマチュアゴルファーへと成長し、日本女子アマでは計3 勝(1969、72、73 年)を挙げている。プロの試合でも度々上位に入り、1973 年のトヨトミレディスで女子ツアー史上初めてアマチュア選手として優勝を成し遂げた。


翌1974 年にプロ入り。1976 年から3 年間は米国でもプレーした。プロとしては優勝7 回。1978 年の日本女子オープンでは樋口久子とのプレーオフを制して初の公式戦優勝を飾っている。1983 年、44 歳でトーナメントの第一線から退く。以降は日本女子プロゴルフ協会の理事長(1984、85 年)、会長(1995、96 年)などを歴任してティーチング資格制度の基盤の立ち上げ、ジュニア指導者の育成などに尽力。女子プロゴルフ界の発展に寄与した功績は大きい。後進の指導でも成果を挙げ、教え子の不動裕理、大山志保、古閑美保が賞金女王に輝いている。


2012 年に日本女子プロゴルフ協会を退会し、現在は同協会顧問を務める。



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島田幸作


プレーヤーズ部門・島田幸作(しまだ・こうさく)氏

1944(昭和19)年5 月7 日〜2008(平成20)年11 月3 日


【主な戦績】
◇国内12 勝 ※1973 年以降は賞金ランキング加算競技が対象
日本プロ1 勝(1968 年)、日本オープン1 勝(1976 年)、
関西プロ3 勝(1973、74、77 年)、関西オープン1 勝(1970 年)など
◇代表歴
ワールドカップ(1975、77 年)


【プロフィール】
 兵庫県出身。尼崎工業高校卒業後、一度は就職したが、母親が働いていた縁で宝塚GCに入りプロを目指す。2 年後の1964(昭和39)年にプロテスト合格。1968 年の日本プロでプロ入り同期である青木功らとの優勝争いを制して24 歳で初優勝を飾った。その後、関西オープン、関西プロと公式戦タイトルを次々に手にし、1976 年には日本オープンを制して当時のグランドスラムを達成した。


1989 年、日本プロゴルフ協会理事に選ばれ、1997 年には同協会内に設置されたレギュラーツアーを管轄するPGAツアー・オブ・ジャパンのエグゼクティブディレクターに就任。1999 年に日本ゴルフツアー機構が設立された際には初代会長(当時の名称はチェアマン)となった。


ツアーの混迷期をトップとして引っ張り続けた功績は大きい。2008 年3 月、会長を退き、名誉会長に。その8 カ月後、新時代の象徴といえる石川遼がプロ初勝利を飾った翌日にがんのため死去した。64 歳だった。


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プレーヤーズ部門・村上隆(むらかみ・たかし)氏

1944(昭和19)年5 月25 日生まれ、72 歳


【主な戦績】
◇国内21 勝 ※1973 年以降は賞金ランキング加算競技が対象
日本プロ1 勝(1975 年)、日本オープン1 勝(1975 年)、
日本シリーズ1 勝(1975 年)、日本プロマッチプレー1 勝(1975 年)、
関東プロ1 勝(1976 年)など
◇海外1 勝
マレーシアオープン1 勝(1972 年)
◇代表歴
ワールドカップ(1972、75、76 年)


【プロフィール】
静岡県出身。伊東市で生まれ育ち、中学時代は近所のゴルフ場でキャディーのアルバイトをしていた。中学卒業後に川奈ホテルGCに入り、キャディーをしながらプロを目指す。その後、東京よみうりCCに移り、1963(昭和38)年のプロテストで合格した。


1967 年のグランドモナークで初勝利を挙げて以降、着実に勝ち星を伸ばしていく。そして1975 年、まず5 月にこの年に創設された日本プロマッチプレーで優勝する。これが初めての日本タイトルだった。9 月には日本オープンに勝ち、10 月にはプレーオフの末に日本プロ優勝、11 月には日本シリーズをも制して空前絶後の同一年日本タイトル4 冠を成し遂げ、初の賞金王も獲得した。長打力はないが、持ち味のパッティング、アプローチを最大限に生かした堅実なゴルフで打ち立てた金字塔だった。


海外でも度々好成績を収め、1977 年のハワイアンオープンでは米ツアーの当時日本選手最高成績となる2 位に食い込んでいる。

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涂阿玉

プレーヤーズ部門・涂阿玉 (と・あぎょく)氏
1954(昭和29)年9 月29 日生まれ、62 歳



【主な戦績】
日本女子プロ1 勝(1985 年)、日本女子オープン3 勝(83、86、91 年)、
LPGAレディーボーデンカップ3 勝(1979、82、83 年)など国内通算69
勝。賞金女王7 回(1982〜86、89、91 年)

【プロフィール】
 台湾出身。中学卒業後に台中の豊原CCにキャディーとして就職。17 歳で淡水GCに移り、陳金獅プロのもとでゴルファーとしての修業を積んだ。アマチュア時代から日本女子ツアーに出場しており、清元登子がアマチュア優勝を果たした1973(昭和48)年トヨトミレディスでは2 位に入っている。


1974 年にプロとなり、日本女子ツアーに参戦。同年の東海クラシックで初優勝を飾った。1981 年に準会員として日本女子プロゴルフ協会入会。歴代2 位となる計7 回の賞金女王に輝いた。中でも1982 年から86 年は5 年連続で賞金女王に輝き、この間の年間優勝数は、9、9、7、7、9 と無類の強さを発揮。最終日は上下ピンクのウエアを好み、「ピンクパンサー」のニックネームでも知られた。


1990 年代前半に右大腿部つけ根を痛めるなどして低迷したが、2002 年の再春館レディースで9 年ぶりの復活優勝。日本国内の勝利数が入会前を含めて「69」となり、樋口久子の最多記録に並んだ。
現在、男女を通じて外国人選手唯一の永久シード保持者である。




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